2011年8月5日金曜日

病み上がり出勤2日目の午後、デスクの電話が鳴った。

先週末からの体調不良のおかげで山積している仕事を片付けつつ、本番間近の佳境に入ったイベントの業務連絡資料作成や問い合わせ対応を昼飯食うのも忘れて次々とこなしているとき、一本の電話がなった。

要件は記事に関するクレームをしかるべき窓口に伝えようと思ったが相手は要領を得ず、電話に出た担当者は名乗りもしないし責任者も不在といわれた、という愚痴と鬱憤をどうしても吐き出したい、その矛先が、紙面に露出している私のデスクの電話に向いただけのことであった。

まず第一声が高圧的に「こちらは○○区○○の×××某であるが君は誰かね」だったので嫌な予感はしたが、大体この手の愚痴聞き(我が社の「しかるべき窓口」の対応に関する指摘)はこちらも慣れたもんで、「名乗りもしないとは指導が届かず失礼を」などと陳謝することから、相手のガスを抜く事に徹する覚悟を決めた。

当該記事の内容にはじまり新聞記事の一過性ではない事の説明やら署名記事の意味合い説明を経て、孫の大学進学の経緯や別の孫への小遣いの受け渡し方法などを 披露いただく段になって、電話の相手をしながら手元で作成している外部への依頼文書がどうにも間に合わないことをあきらめかけた所で、70歳を迎えようという初老の男性が伝統工芸に携わっていることが一方的に告げられた。

それが版画であって「君、版画知ってるか?」と言われたので「バレン使うやつですわな」と返すと「そや、最近はバレンやバランゆうても通じひんで」「バランは寿司に入ってるやつですやんか」とボケツッコミにリズムが生じたときにはもう遅かった。

「オモロいな、ぜひ遊びにこい」「○○寺の門前に店出してる」「雑誌にも紹介された事あるから送ったるわ」と、苦情電話応対のストレスはどこへやら、何やらとっても楽しい方向に進んでしまい、しまいには「君はツイッター知ってるか?」とまで言われてしまった。

我が親父よりは年下ではあるが、70にもなるオッサンにそんな事言われるとは思わなかった衝撃を、相手は見越していたのであろう。「ビックリしたやろ」と逆に突っ込まれてしまい、「友達になってくれや」とネット上の関係構築を約束させられた。

再会を約束しつつ電話での対話は終了。仕事に一段落をつけ、まあ面白そうやし店でも覗いてみるか、と調べると、その男性、れっきとした伝統工芸師であり京都にも2人しか残らない「浮世絵摺師」の一人であるらしいことがわかった。ますます面白くなったが、ツイッターを探しても、フェイスブックを探しても、どこにもオッサンの姿は見当たらない。

さてどうしたものか。

2011年5月15日日曜日

「日本画」ならではの楽しみが、歴然とある。

京都を中心として発展してきた焼物や染物などの工芸の分野において、その創作過程には、日本人の自然観などを写す表現法が取り入れられてきた。また、「日本画」が時代とともに移り変わってきたのと同様に、工芸の分野でも、その時代ごとに新たな表現方法を求める動きがあった。

破壊や淘汰から新たな創造、また継承。その繰り返しによって、現代の美術や工芸作品は生まれたものだ。そして日本では、いつの時代にも「日本画」が、それら表現活動全般の、もっともプリミティブな位相で、時代を飲み込み、消化してきた。

ここで消化された事象がまた、次の時代や違う分野の表現活動の発展に寄与していくのだろう。

昨今耳にすることの多い「日本画とは何か」ということへの戸惑いは、著名な日本画家の口からも発せられている。実際に「日本画」の展覧会場でも、来場者が作品を前に首をかしげたり、「これも日本画なの?」と質問される場面が見られる。

それはそれぞれが思う「日本画とは」を期待して来場した愛好家に限らず、「日本画を学んだ」、「日本画を教える」あるいは「日本画家と呼ばれる」作家の中にも同じように存在する戸惑いだろうと思う。

いろいろな戸惑いを包含するこの世界では、その時代や人それぞれの戸惑いを表現することもまた一つの方法であり、その表現にはいろいろな方法があるということを、総体として知らしめることがまた「日本画」の役割の一つかもしれない。

それは、美術や絵画といった大きな時空間の中ではなかなか発見できず、そこに「日本画」という枠組み=フィルターをあえて設けることで初めて浮かび上がってくる、「日本画」でなければ得られない楽しみの一つなのだ。

2011年1月6日木曜日

夜明けの珍ベーシスト、逝く。

私が唯一持っているベースギターは、フレットレスである。

彼が独学で習得した、と言われるミック・カーンの奏法は、
さすがに誰もまねのできないものであったのだろうか。
あるいはまねをしようと志す、その意の及ばぬほどの高みに、
彼の関わる音楽、楽曲すべてを含め、位置していたのだろうか。

ミックのベースありきのバンド、またアルバム、一つ一つの楽曲。
そこにあふれた異様かつ痛快なベースラインと、
ベースラインそのものに現れた奏者の全身を行き渡る恍惚が、
一つのジャンルをも構成できるほどの空気の塊を作り上げた。

一方で、誰でも良いのにたまたま知り合いのベーシストがミックだった、
というような、安易なバンド編成から生まれる楽曲からは、
彼の世界観を微塵も感じ取ることができず、落胆したものだ。

かの病が意外と身近な所にあることに、
この歳くらいになると気づくものだが、
得てして何の罪もなく、逆に孤高の存在であるような所にも、
同じようにそれは存在するものだと、何度も思う。

ただ、そうして消えて行く一つ一つの記憶それぞれに、
消え行くときにこそ差す、一筋の光明のようなものがある。

当たり前のようにそこにあるものは、
いつも同じ場所にいるのに誰の目にも見えない。
なくなって初めて、誰もがその存在の大きさに気付くものだ。