2015年5月7日木曜日

そしてブラブラと彷徨って。

さて2カ所に別れたブログのログをどこかにまとめておこうかと思って、そういう目的の終着駅のような移転者向けサービスが充実しているのが皮肉なことにFC2だったりする。はてなブロガー目指そうと思ってたのに、ったくしょうがないな。

で、ここに我がブログ人生の全部を転記済み。

http://thebourne.blog.fc2.com/

2015年2月10日火曜日

雪が降るまえに。

家の模様替えをするのを機会に、生まれて初めてブックオフへ本を売りに行った。

散々ため込んでいたわけではなく、都度読まないものから捨てていたので、クルマから二人の手で二往復分ぐらいを運ぶ量だけだ。

売るのはいいけど買うものは何もない店頭で時間をつぶしつつ20分待った査定の結果は、さして驚くものでもなく、レシートを見ると文庫は10円、20円、高くて50円。

美麗な新訳カラマーゾフの兄弟5巻セットは定価から考えて安すぎないか?売るのやめるべきだったか?という以外、書籍でも、サンデル本のようなベストセラーやマニアックなもの、某元新聞記者によるITネタ本の類は買い叩かれ、生活に直結する実用書は高値が付くという傾向が読めた。

全部で8000円ほどにはなったが、重たい思いをしたお駄賃にしては良すぎるか。なかでも一冊だけ意外な値段をつけていたのは、タルコフスキーのお父さんの詩集「雪が降るまえに」。といっても定価の4分の1だったけど。3年前の出版で、まだ絶版にもなっていない本だから、映画好きの中でそれなりに需要はあるのかな。

でも、この本の良さに気付けなかった自分は、ひょっとしてタルコフスキーの映画の本質を理解していないのではないか、と思えてきた。

上っ面しかとらえていないことを自覚していながら読まなきゃいけないと思っている本の類は大事に本棚に並べている。

それよりもまずはタルコフスキー作品を見直すことから始めたいけれども、そんな時間が持てる日がくるのかなあ。

2015年2月6日金曜日

器用貧乏という存在には大いに共感できるという悲しさ

ある行きつけの画廊に寄って久しぶりに顔を合わせた主人と話していたら「ぜひこれを見に行って」とお薦めされ、別の画廊で開催中の、とある平面作家の個展を覗いた。

到着すると、通りに面してウィンドウ越しに架かっている小ぶりな作品から既に半端なく完成度が高い。期待度を高めつつ室内に入ると正面には壁面一杯の大作がドドンと出迎える。大味になりそうなサイズなのに細部の緻密な描写までしっかりできていて、デッサン力のみでなく画材を使った表現力の確かさにいきなり驚かされる。

期待以上の出会いに圧倒されつつフロアを見回すと、表に出ていた作品の連作が狭いコーナーにずらずらっと10点ほど並び、描いた対象物はそれぞれ違えどもどれも手抜きがなく圧倒的に「できがいい」作品ばかりだ。連作としての一貫性もあり、これだけで一つの展覧会ができると思わせる。

別室へ進むと先ほどとはまた別の画風、違う対象を描いた大作が待っていた。今度は繊細さよりもダイナミックなモデルの動きを太い線や構図、画材の組み合わせで表現した作品だ。その絵を前に、同じ絵描きのような先客が「これはすごい」と唸っている。その背面には、生きるものの儚さを表現するかのような、また違う表現の作品があったり、ひたすらデッサンを丁寧に活かし彩色バランスも美しい四季の作品も飾られている。

ここまで見て気づく。恐ろしいほどスキルの高い画家だ。何をさせても卒なく仕上げている。素人目ではあるが、あらゆる技法に貪欲に挑戦し、しかも隙の無いところまで完成させる才能には、今まで出会ったことがないかもしれない。

ただ、どの作品も出来がよく真面目に取り組まれた成果であることはわかるのだが、作家の像が全く見えてこない。

これでもかこれでもか、と作家の懐をすべて見せてもらい、万能、優秀であることはよく分かったのだけれども、技術と完成度以外に評価すべき点が見えてこない。

何年も個展などで追っている若い作家の絵からは、その着実な成長ぶりが見えたり、逆に相変わらず苦しんでいる様が伺えたりするものだ。今回見た作家と同世代であっても、画業と生活の両立などに切実に悩む様子も見えたりして心配になることもある。

そして、そんな悩みや苦しみを画面に精一杯ぶつけた作品からこそ、たとえそれが中途半端な仕上がりであったとしても、得られる共感、感動が大きいのではないか。支えてやろう、応援してあげよう、という気持ちから、パトロンとなってずっとフォローしていくというような、投機目的とは別の仕組みが、この世界には脈々とあるんじゃないだろうかと思う。

画廊に居合わせた、「何でもできる」作家本人がやけに自信たっぷりだったのが、一般的な世間での評価の高さ故なのか、ビジネスとしての画業の成功があってのことなのかは分からない。しかし、その自信が裏目に出るぐらいの挫折や壁にぶち当たる経験がなければ、あるいは既にあったとしてもそれを表現できなければ、本当の彼の絵が描ける日は来ないんじゃないのか。

今度はそれが心配になってきたので、しばらくこの作家をフォローしてみようと思う。

2014年3月19日水曜日

大事に温存してきた楽器群が子ども部屋確保のための断捨離リストの筆頭に上がりそうになったところで黙考(長い)

今、音楽もそうだが、楽器が売れない時代だという。ダメだこりゃ、と、早く方針を切り替えられた楽器メーカーは、こぞってスマホやタブレットのアプリ開発に勤しんでいる。とはいえユーザの大半は、もともと楽器を使っていた人たちだろう。創作の敷居を下げ、アーティスト活動の裾野を広げるに至るかは、楽器業界だけの取り組みではなかなか難しいと思う。

そもそもティーンエイジャーたちは音楽をどのように聴いてきたのか。そこに思いを馳せると、新譜情報を目敏く収集しながらレコード店に通い詰め、ジャンルや世代など縦横にリスニングの幅を広げながらコレクションを増やしていく、みたいな楽しみ方を、もう今は誰もしていないんだと気付く。

技術は進んだから、ふと耳にしてイイ!と思った曲をササッと検索して次の瞬間にはフルコーラス聴くことができる、みたいな時代ではあるけど、そのアーティストの曲それ1曲しか持ってないとか。そんな刹那的な音楽との付き合いの中で、他にない音楽を自分で作るとか、多くの人たちには想像もできないだろう。

昔から言われる、人間の可聴域の中にある音階の、条件的に限られた組み合わせが楽曲だとすると、新しい楽曲はいずれ既成のものと似ざるを得なくなる、だから演歌や民謡は皆同じに聴こえる、みたいな屁理屈の証明より早く、70年代、80年代、と業界を上げてリバイバルと模倣を繰り返すうちに作る側でも聴く側でも「音楽の効用」たるものが飽和しちゃったんじゃないか、という気がする。

テレビで耳にする番組や商品とのタイアップ曲も、昔はCMやドラマのクリエイターの選曲センスに「よくこんなの知ってるよな」と唸らされたものだけど、今は、事務所の売り込みの力加減の結果でしかない。日本に主役をとれる俳優は10人しかおらんのか、というぐらいいつも同じ顔ぶれになる映画やドラマの出演者と同じで、安全安心なリストで臨まなければ企画は通らないのだろう。誰も知らない草の根の才能を掘り起こし、育てていこうなんてもうマスの世界では無理なのかもしれない。

新聞を読まない世代は、もはやお金を払って音楽なんて聞かない。無償であるテレビさえも見ない。寝ても覚めてもスマホを離さず、LINEとパズドラの合い間にYouTubeで動画と音楽である。こんな図とて半年後にはどうなってるか、誰も分からない。

画面をヌメヌメと撫で回し続けて、人類の右手の指の骨格や形状がどう進化するかはある意味楽しみだが、その結果を私は多分知ることはできない。 まあ、入力装置としてはもうパソコンのキーボードが近いうちなくなるだろな、ぐらいの想像はつくんですけどねえ。「まだそんなのパチパチ叩いてるんですか!うるさいっすよ!」とか、(上司かもしれない)若い社員に突っ込まれるんだろなあ。

2013年8月5日月曜日

唐突に「周航歌の斉唱」と言われてもそれ知りませんから。

今日は、滋賀県の学習船「うみのこ」の就航30周年記念式典と体験乗船会に、全くのプライベートモードで参加して参りました。

「うみのこ」は、琵琶湖を舞台に、県内の全小学校5年生が年間を通して順番に乗船し環境や滋賀の成り立ちを学ぶ「フローティングスクール」実施施設です。
いつも大津港で停泊しているのを見て嬉しげに眺めていますが、30年前にはすでに高校へ入っていた、しかも大阪府民→京都府民である私と「うみのこ」は縁遠いもののはずです。

しかし数年前、「手紙を書こう」プロジェクトの取り組みで、ある県内の小学校の授業を行った際に、ちょうど5年生が乗船直後ということで「うみのこ」で世話になった人々にお礼の手紙を書く、というテーマ設定だったことからこの学習船のことを初めて知りました。

その手紙の内容は、児童それぞれが感謝の対象を選び思いを伝える、というものだったのですが、予想外に多くの子どもが船長ではなく料理長を相手として、船上での食事が美味しかった、ということを表現していたのです。

そこで何度も繰り返し聞いた「うみのこカレー」を絶賛する子どもたちの声。それを京都府民のオッサンが実際に乗船し体験するチャンスがやってきたのです!

乗船者募集中という新聞記事を見てこれは逃すまい!と応募したところ、実態はよく分かりませんが見事に当選。午前中のセレモニーと講演会を経て乗船。船内の食堂でようやく辿り着いたカレーは、あの子どもたちが口々に「美味しかった」と言っていたカツカレー。

何とも期待が大きすぎたのが正直な所ですが、スパイスも程よく効いた甘口のカレーでとても美味しいものでした。普段子どもたちにはお代わりの提供もしているようですが、今日は大人の乗船会ということで無理もできません。子ども向けの量であったことだけが唯一残念ですが、一緒に食べた長男も美味しいと一皿ペロリ平らげてました。


午後の乗船航路は琵琶湖の南湖を一周するもので、幸い天気もよく、いつも見慣れた風景を別の距離感で眺めることができとても楽しかったです。

さて次のチャンスは40周年か?

2013年6月26日水曜日

Tシャツの好みは、生地の厚みや風合い、サイズ感など人ぞれぞれですから。

豆餅の出町ふたばで有名な京都の出町柳は、お金が無くても皿洗い勤務で食べさせてくれる王将があったり、京大や同志社の学生も多く暮らす、また鞍馬や貴船など洛北エリアへの交通拠点にもなっている街。

お盆には大文字が真正面に見えるスポットとして屋台が多く繰り出し大変な人出に見舞われます。私も小学生の頃は夏になると、三条京阪から市電(路面電車)に乗って、近くに住んでいた祖母のもとへ泊まりに通い、下鴨神社の御手洗祭で冷たい水に足をつけたり、特等席で送り火を眺めたり、と思い出の多いスポットです。

鯖街道の終点であり、肉のムラセ、おもちゃのイカワと懐かしい店が今も残る出町商店街には「岸本屋」という日用衣料店がいくつも店舗を構えていて、ワゴンに山積みの女性ものの下着類が子供心に刺激的だったのが印象に残っています。

さて時は変わり、世の中にインターネットが普及し、eコマースなんかに注目が集まりだした頃、全国でも先駆け的にTシャツをネット販売し著名になった店がありました。ITベンチャー企業を集積する施設「京都リサーチパーク」の開業間もない頃にテナントとして入居し始め、販売店舗を持たずネット専業で挑戦し事業に成功した、という触れ込みで、オーナーはこの世界で一躍有名人となりました。

店の名前は京都イージー。10年以上前、そんなに評判なら試しに買ってみよう、と何度かTシャツを買いましたが、商品を画面上で漁りながらホームページに書かれたうるさ目のうんちくに埋もれかけたオーナー岸本栄司さんのプロフィールに「ん?」と目が留まったのです。

「実家の日用衣料店で...」うんぬん。当時は出町がどうたらこうたら書いてはったと思います。日用衣料で岸本といえば「岸本屋ちゃいますん?」。メールでの商品受発注のやり取りにメッセージを添えると、やはりドンピシャでした。

こちらの懐かしい思いからの興奮とは裏腹に、どうやら実家を飛び出して開業したような流れらしくむにゃむにゃと言葉を濁されましたが、あの商店街からよくぞベンチャーが発生したもんだ、と感嘆したのを覚えています。

しかししかし、そんなことを思ったのはまだユニクロがヘンテコなロゴの「ユニーククロージングウェアハウス」だった時代かさらに昔。その後世界的に巨大化急成長する日用衣料企業の出現に、京都イージーはどうなったのか!全くこれっぽっちも興味は無かったのですが、先ほど調べたら事務所は移転されたようですが、まだまだご健在でした。


今後のご発展をお祈りいたします。

2013年6月19日水曜日

走ったことのない道を無くしていくこと。

なるほどサイクリングロードなんて便利なものがあって、その上を走っていれば簡単にゴール地点には到達するようにできている。
だいたいは河川敷、堤防の上を丁寧に舗装したもので自動車が進入する恐れもなく快適に、疲れさえ知らなければノンストップで走り抜けることはできる。

そんな道をストイックに、一定のケイデンスを維持しながらとか、どこまでスピードを上げられるかとか、考えながら疾走するわけですが、一体それが何なんだ?と、もし聞かれたら、ダイエットのための運動ですよ、としか答えようはなく。
確かに軽いジョギングに比べるとサイクリングでのカロリー消費はその結果にかなり期待できる。
走り終えてすぐに体重計に乗って驚くこと必至ですね。

比較ついでで言うと、ランで痛めがちな膝を痛めない代わりにお尻と言うか股ぐらが痛くなるんですがね。
あと疲労の加減はそんなに変わらない。
しかし多分、何らかの事故が起きた時のダメージは数倍大きかろう、とは想像がつく。
転倒、衝突、その他...。
だからヘルメットは被るわけだけど、ボディに関してはほぼ無防備状態です。

それとリスクといえば、パンクの恐怖。怖い訳じゃないけどタイヤの劣化は必然として進む訳で、パンクチャーのタイミングはそのうち絶対やってくる、きっとくる、いつかくるのが分かってるだけに「やだなあ」という思いはずっと抱えなくちゃならない。補修のキットとスキルは備えた上でも、予知できないだけにやっぱり嫌なもんだ。

そんなモヤモヤッとした思いとともに、走る。
そのうち近所のサイクリングロードは制覇する。
新しい、知らない道を求めて地図を眺めるか、いつもの道から外れて何か目的を設定するか。
体力勝負だけじゃなく、いかに五感を駆使するか。
また方向感覚や距離と時間の感覚、天候や風の移り行く先を読む力なんてのを開発して。

そういう楽しみ方を一つ一つ経験として重ねて、走ったことのない道を無くしていって。
人間というものは成長するんだろうな、という話。